言葉のセンスの問題か
学校関係、いじめ防止対策推進法のいう「いじめ」の定義に関する話である。
以前記事を書いたとおり、「いじめ」に該当するかどうかは、被害生徒が主観的に苦痛を感じたか否かで決する。常識的に考えて、加害とされる生徒を非難できないようなこと(不快感を与えるような接し方をされて嫌悪したところ相手に苦痛を与えてしまった、告白を断ってショックを与えた等)であっても、「いじめ」に該当し得る。
いじめ防止対策推進法の立法者に、法の網にかかるものが広いという意識があったのかどうかは知らない。
ただ、このように受け手の主観で判断するのは、いじめ防止対策推進法により学校に与えられる責務は、加害とされる生徒への制裁や責任追及を目的とするのでなく、理由はともあれ生徒が苦痛を受ける事態になっている以上、学校が早く介入して、実態を悪化させないようにするのが趣旨だからである。という説明をして、「いじめ」の定義が合理的だと関係者に理解してもらうようにしている。
(なお、これは28条の重大事態対応が求められない、平時の「いじめ」の話である。前記の趣旨を踏まえても、重大事態になったときに、関係者に求められる対応の負担の重さは、「いじめ」の範囲と比較して余りにアンバランスである。その話はまた別の機会に。)
実際、いじめを認知した学校がすべき、被害生徒側への支援と加害生徒側への指導・助言の具体的な内容・方法は、教育の専門家である現場の教職員の広範な裁量に委ねられてる。被害生徒側が厳しい処置を求めても、必ずしもそうする必要はないし(そうするべきでないこともある)、「いじめ」という言葉に固執せずとも、生徒指導として、教職員が最善と考える方法を採ればよい。※
※例えば、広島地判R4.11.9は、「いじめ等の内容や加害者及び被害者の性格、状況、心情等は様々であるから、個々の場面において具体的にいかなる措置をとるべきかは一義的に定まるものではなく、基本的には教育の専門家たる各教員の合理的な裁量に委ねられているというべきであり、教員らがその裁量の範囲を逸脱したり、明らかに不十分・不合理な対応であると認められる場合に限り、国賠法1条1項の適用上違法となるものと解するのが相当である。」と説示されている。無論、裁量にも限度はあり、体罰等の違法な手段は許容されない。法が指導・助言を要請されている以上、何もしないという選択もないだろう。
しかし、それにしても、上記の定義で、「いじめ」という言葉はセンスがないだろう。
小中高生向けの道徳の授業やいじめ予防授業において、「いじめは絶対してはならない」「許されるいじめはない」という指導をするのではないか。
報道等で「いじめ」という言葉が出ると、世間には学校や関係生徒に対する敵意が広がる。それだけ悪印象を与える言葉だ。
告白を断られた事例で、これはいじめですねとすんなり認知できる者がどれだけいるだろうか。
仮に、被害生徒の苦痛に重きを置いて、学校の早期介入や対応をというなら、「要支援事態」など、言葉を変えるべきであろう。
また、いじめ防止対策推進法4条には、「児童等は、いじめを行ってはならない。」と定められている。
高校生から、「相手を傷つけたらいけないなら、好きでもない人に告白されても、付き合わないといけないのですか?」と質問されたら、どう答えるのだろうか。
どんな極端な例は置いておけと言いたくなるかもしれないが、「いじめ」の定義に合致している以上、それでは答えになっていない。
公民をしっかり勉強している高校生なら、いじめ防止対策推進法4条は憲法違反ではないかと疑問を持つ者も出てくるだろう。
これは訓示規定であって罰則もないからいいんだ、とでも答えるのだろうか。