弁護士コラム

浅はかな無罪判決批判 その1

ここのところ立て続けに、控訴審で1審有罪判決が破棄され、逆転無罪が言い渡される事例があった。業務上過失致死と強制性交の事件である。
それに対して、インターネット上では、非常識な判断をしたなどと裁判長を批判する意見が散見される。判決に反対する署名活動や、甚だしきに至っては関係機関への苦情申入れや裁判長の訴追請求を求める動きすらみられる。いずれも原審では実刑判決が言い渡されており、逆転無罪が確定すれば、危うく、犯罪をした証拠もないのに1人の国民を長期間刑務所に入れるところだったというのに、よくもまあ安易に行動に移せるものだと「感心」する。

なお、私は、2つの判決の中身について、賛成も反対もしない。というより、今手元にある情報だけで論評できるような事件・判決ではない。安易な判決批判に対して、突っ込みどころが追い付かないが、本コラムでは、2点指摘することとする。

判決内容を非常識だと批判することについて

判決批判は、判決文原典に当たっておらず、報道を通じて得た情報を基にしていると思われる。しかし、対象事件は2つとも、報道を通じた断片的な情報だけで「非常識だ」などと断じることができるほど単純なものではない。

業務上過失致死の方は、船舶の操縦に当たっての注意義務違反(過失)の有無が争点になっているようである。説明を単純化すると船舶でも自動車でも同じであるが、運転するに当たってまずい点(法令違反、不適切など)があったとしても、「まずい点がなければ、事故を回避できた」という前提(結果回避可能性という。)が認められない限り、過失は認められない。

少し想像すればわかることであるが、例えば、車を運転中に空から人が降ってきたため、ぶつかってしまい、被害者が亡くなってしまった、その時車の運転者は、たまたま脇見をしていたとしよう。
確かに車の運転者が脇見をしていた点はよろしくなく、その点を批判されるのはやむを得ない。しかし、きちんと前を見て運転していたとしても、空から降ってきた人を避けるのは難しいであろう。
そのような場合において、「仮に、前を見て運転していたとしても、空から降ってきた人を避けられるか」という点を議論することもなく、脇見をしていたのだから怪しからん、実際に事故を起こして人が亡くなっているのだから、お前は刑務所行きだと言われたらどうだろうか。

脇見をしていなかったとしても、事故は回避できなかったのだから、運転者に過失は認められず無罪である、というのが正しい結論である。結果回避可能性を単純例にすると、こういうことである。

私も報道でしか事件を知らないが、先の事件は、船舶の運転者が適切な行動をしたとして、事故を回避できていたかという点が争点になっており、その点に関する検察側の実験等に問題があったという情報もある。インターネット上などで安易に判決内容を批判している人は、上記争点に対する検察側・弁護側の対立項を正確に把握し、実験結果等に対する裁判所の評価を踏まえて批判しているとは到底思えない。

強制性交の方は、被告人の故意を基礎づける事実に関する被害申告者の供述の信用性が問題になっていたようである。これも、被害申告者がこう言っているから信用できるとか、被告人がこう言っているから信用できないといった単純な問題ではない。事件に至る経緯から事件後の事情に至るまでの、それぞれの供述の信用性に関する客観的証拠を総合的に検討する必要がある。報道に表れている程度のごく断片的な情報(当時の動画のごく一部分の評価を基に、判決内容が批判されているようである)から読み取れる証拠評価だけで、判決内容が非常識だなどと断じることはできない。
報道に表れていない部分の証拠も考慮すれば、妥当な結論になるのかもしれない、程度の想像力が働かないのだろうか。

判決内容が非常識だと批判するならば、訴訟関係人以外が証拠そのものに接するのは難しいかもしれないが、少なくとも判決文を読まずして、適切な論評はできない。
(証拠を見なくても、判決文を一読するだけで、法解釈や論理則・経験則に疑義が出ることはある。)

判決内容を批判している者の多くは、事件の全体像も理解せず、報道に現れる断片的な情報と「被害者が可哀想」という直感的な感情で批判しているに過ぎないのではないか。
居酒屋等で「あれはおかしいだろ」などと雑談する程度なら何もいうことはないが、署名活動や裁判長の訴追などといった行動に移そうとする者が多く存在するのを見ると、何と浅はかなものかと嘆かわしい。

(その2に続く)