いじめ防止対策制度
私はこれまで学校関係法務に注力してきた。県立高校を中心に、いじめ重大事態の調査委員長を担当した件数も10件を超えている。教育現場のうち、生徒指導・いじめ防止対策の分野の実情はある程度把握できてきたつもりである。
ところで、「いじめ」という概念をいじめ防止対策推進法に定める定義に基づいて構成すると、「いじめをするということは、悪いことで絶対にやってはならない」という論理は成り立つだろうか?私は否だと考えている。常識的な発想する方からすると驚かれるだろうが、いじめ防止対策制度をそれなりに理解している弁護士からすると、頷けるだろう。
上記論理の対偶は、「悪くなくやってもいいいじめも存在する」という論理であり、これは是であるのだ。
というのも、いじめ防止対策推進法のいじめの定義は、同じ学校の他の生徒の言動により、主観的に心身の苦痛を感じたら「いじめ」であるのだ。
ここで事例を1つ。
AさんがBさんに暴力を振るった、あるいは金銭を喝取した。これらは通常相手に苦痛を与える言動であって、「いじめ」である。当然これらが許されるはずはない。Aさんが加害生徒で、Bさんが被害生徒であろう。
学校は、Aさんに厳重に指導して然るべきであるし、指導を重ねても直らないようであれば、他の生徒の安全確保のためにも、Aさんを教室から排除することも検討しなければならない。
事例をもう1つ。
Cさんは、同じクラスDさんといつも一緒に昼ご飯を食べていた。ある日、Cさんは、Dさんの誘いを断って、たまたま部活仲間と昼ご飯を食べたので、Dさんは、疎外感を感じてしまった。Cさんは、Dさんを仲間外れにするつもりはなく、部活動の大会が近いこともあり、部活仲間と打合せをしながら昼ご飯を食べたかっただけである。
さて、いじめ防止対策推進法の定義によれば、Cさんの言動は、Dさんに対する「いじめ」に当たる。
しかし、Cさんの言動は許されないものだろうか?私はそうは思わない。毎日必ず特定の友達と昼ご飯を食べなければならない義務などなく、Cさんにも部活仲間と昼ご飯を食べる権利がある。
Cさんが「加害生徒」、Dさんが「被害生徒」と呼称するのもおかしい。
あらら、世の中には「やっていい、許されるいじめ」が存在するのか。
先の事例に付け加える。自宅で悲しそうな顔をしているDさんに対して、Dさんの保護者が心配して事情を聴くや否や激怒し、学校に乗り込んで、教員に対して、「Cのやったことは悪質ないじめである」「即座に停学処分にせよ」「被害者に寄り添わないのか」などと捲し立てた。法律的にはそうかもしれないが、Cさんに悪気があったわけではないし、友達が寂しい思いをしないように周りを見れるとよりよい、といった指導をしますから、となだめる教員に対して、Dさんの保護者は、1時間以上も怒鳴り続けた。
私は、この事案、Dさんの保護者が「カスハラモンペ」であり加害者側の人間であって、Cさんと教員が被害者側と評価する。
Dさんが、学校での集団生活では必ずしも自分の思いどおりになるわけではないことをわからず、昼間の出来事を引きづってしまうのは、この保護者の性格・躾の問題ではないかとも勘ぐってしまう。
なぜ後半事例のような道理の通らない事象が起きるのか?そもそも「いじめ」の概念を広く定めているのは、いじめ防止対策推進法やいじめ防止対策制度は、関係生徒の言動の是非を問うたり、責任を追及するための制度ではなく、原因はどうであれ学校生活の対人関係で悩んでいる生徒に対しては、学校が早期に介入・支援して、問題の深刻化を防ごうという趣旨なのだ。
その趣旨を逸脱して、一般常識的な「いじめ」という用語の悪印象を利用して、物事が全て自分の思いどおりにいかないと気に食わないという一種の我儘を押し通す人間が現れるため、教育現場がおかしなことになっている。
心身の発達途上の生徒が悩むならまだしも、俯瞰的な立場から物事の道理を子どもに教えるべき保護者が、子どもと一体化となって自分が自分がと騒いでいるのだから、手に負えない。